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1 私の目指す福祉社会
少子高齢化社会にどう対応してゆくかという政治課題は、1人1人の政治家の思想・哲学を反映する最も優れた鏡である。
なぜなら、この問題を熟考してゆくと、サッチャーやレーガンの例を引くまでもなく、結局、高福祉高負担の社会を目指すのか、あるいは、低福祉低負担の社会を目指すのかという政治哲学の根本に立ち至るからである。つまり、日本はいかなる社会をめざすのかという根源的な問に答えを持っていないと、この課題には対応できない。
結論を先に言えば、私は、できるだけ高福祉中負担の道を探りたいと思っている。言い換えれば、知恵と工夫さえあれば、中負担で高福祉が実現できるのではないかということである。
確かに、本小論で詳述するように、これからの少子高齢化社会を想定すると相当の負担は避けられない。しかし、その負担には、国民の努力と意識改革があれば、それなりの工夫が出来るのである。
例えば、Vol.5でも述べたように、社会を支える社会保障的なものを何でもかんでも政府や自治体が画一的に提供しなければならないというものでもない。福祉や介護などの分野において、多くのボランティアの方々が支え合う仕組みを追求する余地は十分にある。Vol.5で述べたのは、「税で支える社会」から「汗で支える社会」への転換であったが、転換という言葉が強すぎるにしても、税の足りない部分を汗で補えば、高福祉中負担も不可能ではない。それがまた、汗をかく人間の生き甲斐にもつながってくるのであるから一石二鳥である。
私は、一国の社会保障の変遷は、世代構成の変化とともにあると思っている。団塊の世代が60才を迎える年が、2007年問題として脚光を浴びつつあるが、戦後経済成長を支えたこの世代は、戦後復興とともに地方から大都市に出てきた元祖団地族でもある。その後、多くの若者が大都市に出てきて大学に通い、また職に就いてきた。そして、両親は田舎、成人した子供たちは都会、といった形で核家族化が進展した。
周りに知人が少ない大都会で、核家族が助け合うのは容易ではない。従って、行政が相互扶助の部分まで担い、財政負担を増大させてきたのもやむを得なかった面がある。高度経済成長がそれを可能にした面もある。
しかし、団塊の世代が高齢世代に入るとき、状況が変わる可能性が高い。彼らは、定年後も引き続き大都会に住み、子供や孫とそんなに距離が離れていないところで生活することになるのである。ならば、ときどき孫の面倒を年老いた両親がみたり、あるいは、両親を子供が時々面倒を見るということも可能になってくる。地域社会で支え合う社会、ボランティアが支える社会と大上段に振りかぶる前に、3世代家族が適当な距離感で居住しながら、お互いに支え合うということが可能な時代がもうすぐ来て、それがしばらく続きそうなのである。私は、この点にも大いに期待している。これもある種の「汗で支える社会」だからである。
医療費負担の問題も頭が痛い問題である。だが、私は、病気の予防、健康管理に力を入れることによって、負担の軽減を図ってゆく努力がもっともっとなされていいと思う。もちろん、これには、国民1人1人の注意と努力が必要なのであるが、健康な生活を長くおくれるという意味で、これも一石二鳥である。
私が理想とする少子高齢化社会のイメージは、このような意味での高福祉中負担福祉社会である。是非この点を頭の片隅においていただきながら、次項以降を読んでいただければ何よりである。
2 少子高齢化社会にいかに対応するべきか
・少子化はいつ始まったか
少子高齢化とは、いつ頃から言われるようになったのであろうか。確かに、「高齢化社会」という言葉は、昭和50年代初めからいわれており、かれこれ30年ぐらいになる。一方、「少子化」あるいは「少子社会」という言葉は必ずしも古くはない。平成2年6月に1.57ショックという言葉が世の中をにぎわしたことがある。平成元年(1989年)の出生率が昭和41年(1966年)の丙午(ひのえうま)の年の出生率よりも下がってしまったのである。これが、少子化という現象について、社会的に認知されたおそらく最初の出来事ではないかと思われる。
最近のパソコンでは大丈夫なのだが、IT化でパソコンが普及をはじめた平成10年頃のパソコンでは、「しょうし」あるいは「しょうしか」と入力しても、正しい漢字に変換されることはなかったそうだ。また、「広辞苑」によれば、「少子」という語は、末子のこととされており、子どもが少ないという意味ではない。同じく、「少子化」という語は、平成4年度の国民生活白書で使われた語とある。要するに、少子化というのは、平成になってからの造語なのである。
このように、少子化が我が国の社会一般に強く意識されるようになったのは、せいぜいこの10年、急速に深刻化したのは、この数年のことである。
日本の出生率(合計特殊出生率のこと。1人の女性が1生涯に生む子どもの平均の数。)は、この数年で急速に低くなってきたわけではない。戦後のベビーブーム以降、出生率は低下をはじめたものの、昭和40年代後半(1970年代前半)までは、2.0をおおむね上回っている。昭和50年に出生率が2.0を下回ったのを皮切りに、その後30年間にわたって、ほぼ一貫して下がり続け、今日の1.3台という状態に至ったのである。すなわち、極めておおぐくりにとらえると、戦後生まれの世代が子どもを生みはじめる時代に出生率が2.0を割り込みはじめ、現在は、そのジュニアたちが、さらに拍車をかけて一層子どもを生まなくなってきているということができる。
しかしながら、このような分析も、今振り返ってみればそうだっのだということができるのであって、出生率が2.0を割り込みはじめた昭和50年代当時は、出生率が低い時代がそう長く続くはずはないと専門家の間では思われていたし、少子化という社会現象が一般の人々の意識に触れることもまずなかったのである。
・少子化の国際比較
将来の人口予測では、日本は、世界でも希な超高齢化社会となることが予測されている。日本の高齢化率(65歳以上人口の割合)は、平成12年(2000年)で17.4%であるが、それから50年後の平成62年(2050年)の予測では、35.7%である。
このような30%台後半に達するような国は、日本のほかは、スペイン、イタリアぐらいだけだといわれている。イギリスもフランスも高齢化率が30%に達することはない。アメリカに至っては20%そこそこにしかならない。将来の日本がなぜこのような超高齢化社会になるかと言えば、国民の平均寿命が世界一であるということよりも、出生率の低下による少子化の裏腹としての超高齢化が進行するからである。
出生率を国際比較してみると、ドイツ、イタリア、スペインに加えて日本が1.3前後となっている。フランス、イギリス、スウェーデンなどは出生率の上昇・下降の変動はありながらも、1.6前後である。また、アメリカは、先進国の中では際だって出生率が高く、人口を維持できる水準といわれる2.1をも上回っている。さらに、驚くことに、アメリカはいわゆる白人(ヒスパニックを除く)だけでみても、1.9となっている。このような各国に出生率に格差が生じていることについては、様々な分析が行われており、後で若干このことにも触れるが、いずれにしても日本が1番低いグループに属することだけは確かであるということである。
・少子高齢化社会における社会・経済の姿
我が国の「少子・高齢化」は着実かつ急速に進んでいる。それに伴い、子どもが減り高齢者が増える暗い社会のイメージが語られることも多くなっている。例えば、「労働力の量的な減少・質的な低下や消費人口の減少等が経済活動の停滞を招く」「若者が減少し社会全体の活力が失われる」「高度成長や若者の多いピラミッド型の人口構成を前提とした年金等の制度が維持できず、社会保障費用の負担が増える」といった悲観的な見方が主流だ。
一方で、例えば、「人口過密に伴う問題が解消され、環境問題や土地・住宅問題、交通問題などの解決につながる」「教育の質的な充実が図られる」「生活優先のスローライフ社会が形成される」といった楽観的な見方もある。
いずれの見方が正しいにせよ、また、少子化対策の実施等の効果による程度の差はあれ、少子化・高齢化及びそれに伴う人口減少社会の到来は確実にやってくる。そして、この現象は我が国のみならずヨーロッパなどでも既にみられるところであり、いわば「少子高齢化社会」は21世紀の先進国が直面する共通の課題となっている。この大きな流れの中で、社会全体の活力や国民生活の質をいかに維持しあるいは高めていくか、そして次なる飛躍につなげていくかが、今問われているのである。
少子高齢化が進展し、人口が減少していくと、どのようなことが懸念され、又どのようなことが期待されるのだろうか。
まず懸念されるのは、経済活動の停滞である。戦後の日本は、質の高い豊富な労働力と高い貯蓄率に支えられて、大きな経済的飛躍を遂げてきた。ところが、労働力については、少子高齢化の進展により、労働人口の減少を覚悟しなければならない状況にある。また、貯蓄率についても、基本的には貯蓄を取り崩す層と見込まれる高齢者が増加していくことから、従来のような高い貯蓄率を期待することは難しいと考えられる。少子高齢化の進展により、戦後日本の高い経済成長を支えてきた重要な要素が失われていくおそれがあることを覚悟しておく必要がある。
他方、少子高齢化、人口減少によるメリットにも目を向ける必要がある。最も大きなメリットは、人口過密に伴う諸問題の解消だろう。
わが国においては、これまで土地・住宅問題が常に大きな課題として横たわっていた。高度経済成長の過程で、土地の価格は右肩上がりで上昇し続け、土地神話が形成された。マイホームを買うことがサラリーマンの一生の夢となった。しかし、やっと手に入れた住宅は、海外からはウサギ小屋呼ばわりされ、すし詰めの通勤電車に長い時間揺られる毎日。バブルの崩壊と共に、マイホームは以前よりも手に入れやすくなったが、総人口の減少により、都市圏を中心にわが国の大きな悩みであった土地・住宅問題は、これまで以上に緩和の方向に向かっていくと思われる。
思えば、戦後のわが国には様々な「地獄」が出現した。「通勤地獄」「渋滞地獄」「受験地獄」・・・。これらの多くは、人口が減少していけば自然と緩和されていく性質のものである。
環境問題も改善が期待される。ゴミ、排ガス、汚水、いずれも量が多ければ環境に負荷がかかる。排ガス規制、水質規制といった様々な対策を講じたことにより、わが国の環境問題は、一時期に比べずいぶん改善されつつあるが、総人口が減少していけば、量的な面でも負荷が軽減されていくことになるだろう。
経済面においてもデメリットばかりがあるわけはない。先ほど、少子高齢化の進展により経済活動の停滞が懸念されると記したが、一面では、新たな産業が育ち、発展していくことが期待されている。
シルバー産業がその典型例であるが、子どもを対象にする産業でも、保育所をはじめとする子育て支援産業などは、女性の社会進出の進展にあわせて成長していく可能性を十分秘めている。
旧来型の産業においても、少子高齢化の進展に伴って大きな転換がもたらされる可能性がある。たとえば、わが国の農業は、農家1戸当たりの耕地面積が狭く、それが大きな障害となって生産性も諸外国に比べると低かった。手厚い補助金や様々な規制の存在などの要因もあって、農地の集約化が進まず、農業従事者の平均年齢も、年々高齢化の一途をたどってきた。しかしながら、それもそろそろ限界に近づきつつある。私の地元である岐阜においても、高齢化が進み農地を維持できない農家が増えているため、確実に農地の集約化が進みつつある。少子高齢化が契機となって、長年の懸案であった農地の集約化が進展していく可能性が高いのである。
・地方が少子高齢化社会のモデル
高齢化の状況を地域別に見た場合、3大都市圏で低く、それ以外の地域で高い。平成12年現在の高齢化率は、高い方から島根県(24.8%)、高知県、秋田県であり、他方低い方からは埼玉県(12.8%)、神奈川県、沖縄県となっている。また、各都道府県の中でみても、総じて農村部の高齢化は都市部に比べて先駆けて進んでいる。
今後、高齢化は全国的に進行し、20〜30年後にはほぼ全ての都道府県で現在の島根県以上の高齢化率となることが予測されている。この場合、現在の人口構成等から考えて、特に都市圏において高齢化のスピードが速まるものと見込まれている。
一方、全国的な高齢化や、高齢者のみで構成される世帯の増加が見込まれる中で、医療や福祉などの高齢者向けのサービス産業や公共施設が集中している大都市や各地域の中核的都市への人口(特に高齢者)の移動が起きるのではないかとの見方もある。こうした事態が大きな流れとして生じた場合には、現在も「シャッター通り」という言葉に象徴されるような活力低下に悩んでいる地方の中小都市や農村の人口減少をますます加速化させることも懸念される。
こうした都市と地方の問題を別の観点からみれば、現在生じている地方の少子高齢化・人口減少への対応こそが、これからの我が国社会全体の少子高齢化・人口減少へのモデル的処方箋となると考えることができるのではないだろうか。少子高齢化社会や人口減少社会の将来像がイメージしにくい中で、既に先駆け的に様々な課題に直面している地方が、問題を深く自覚してこれまでのやり方を見直し、少子高齢化に対応した地域経済・産業の育成、効率的なサービスの提供、住民生活の質的向上、地域の高齢者の活躍の場の提供などを通じた魅力ある豊かな地域づくりに取り組んでいくことが重要である。
この場合、旧来的なコミュニティを守ることだけが求められるわけではないだろう。「祭」などの行事が核となって、都会に住む孫世代も含んだ様々な世代間の交流につながっている事例は各地にみられるところである。また、産直契約や「道の駅」での直売所の開設、さらには農作業体験や農村での長期滞在など都市に住む「お得意さん」との交流・連携の場を用意することや、会社を退職した人々に農園付き住宅を用意して農村に迎え入れることも考えられる。このように地域の特色をいかした多様なあり方を追い求め、新しいコミュニティを創造していくことも視野に入れる必要があるのではないか。
あるいは、あえて遠くの都市住民を迎え入れる必要もないのかもしれない。例えば、愛知県の豊田市では、高度成長期に自動車関連会社で働くために全国各地からや集まってきた人々が年間2〜3千人のペースで定年を迎えつつある中で、構造改革特区制度を活用して生きがい農業のための農地取得を促進し、こうした人々をつなぎ止めようと動き出している。
こうした取組がこれら地方における人口減少の加速化を回避する手段ともなろうし、また、国がこれらの取組を支援し、他の地域にも波及させていくことが、我が国全体の利益にもつながるであろう。
・少子高齢化社会・人口減少社会にいかに対応するべきか
では、我々は、現在急速に進みつつある少子高齢化社会、近い将来訪れる総人口の減少といった事態にいかに対処していくべきだろうか。
労働力の減少対策としては、よく移民問題が論議されるが、まずは高齢者や女性など現在必ずしも有効に活用されていない人材を、きちんと活用していくことが先決だろう。
一口に高齢者といっても、元気な方から寝たきりのお年寄りまで様々である。給料はそれほど望まないけれども、生き甲斐のある仕事をしたいと希望している高齢者の方々は大変多い。日本経済の活力の維持という視点のみならず、このような方々に生き甲斐を提供するという観点からも、今後は高齢者が働きやすい社会を作っていくことが重要な課題となる。
しかし、具体的な対策となるとなかなか決定的なものがなく、当面はVol.5でも触れたように、NPOやボランティアを支援する仕組みを活用していくことが現実的だと思う。今でも、博物館や歴史的な施設などに行くと生き生きと解説をしてくださる高齢者のボランティアに出会うことがある。NPOやボランティアは、これまで高齢者をケアする際の仕組みとして語られることが多かったが、高齢者に働きがいのある場所を提供する仕組みとしても非常に有効である。
諸外国と比較して、日本の女性の就業構造の特徴として、女性の年齢を横軸に有業率を縦軸にとったグラフを描くと25歳から39歳の部分が大きく落ち込むM字カーブを描くことが指摘されている。その原因が、女性としては育児と仕事の両立を望みながら、様々な障害のために仕事をあきらめざるを得ないということであれば、その障害を除去していく努力、たとえば保育所の充実などが必要な対策となる。ただし、一方で、わが国におけるM字カーブは女性自らの選択によるもの、すなわち、子どもができたら子育てを優先したいと考えている女性が多いためだという調査結果もあり、必ずしも単純には割り切れない。いずれにせよ重要なことは、子育てをしている最中であれ、子育てを終えてからであれ、働く意欲のある女性が働きやすい環境を作っていくことである。
現在、大きな社会問題になっているフリーター対策も重要な課題である。労働力が減少していく社会にあっては、国民生活白書の推計で約400万人ともいわれるフリーターはまさに重要な人的資源である。
最近、わが国企業において、大卒後2〜3年の就職経験有りの人材を見直す機運が出てきているが、これなども私が主張している「再チャレンジできる社会」への1歩前進と、前向きに捉えてゆくべきではないかと考える。
・少子高齢化の進展が社会保障制度に与える影響
次に、少子高齢化の進展が年金、医療、介護といった社会保障制度に及ぼす影響を考えてみよう。
昭和50年代以降、我が国で生じた高齢化という現象は、年金、医療、介護といった社会保障制度からみれば、財政負担の増大であり、大変厳しいことなのだが、平均寿命の伸びが主たる要因であったので、社会のありようとしては、ある意味、喜ばしいことでもあった。
ところが、少子化というのはそうではない。しかも最近の出生率低下の要因を分析してみると、晩婚化・非婚化の進行ということに加えて、夫婦の出生力そのものの低下が起こっているために、出生率が低下してきていることが明らかとなってきた。晩婚化であれば、いずれは結婚して子どもを持つことになるから、単に時間差の問題にすぎないが、生涯非婚あるいは夫婦の出生力の低下ということは、由々しきことである。何故なら子どもを持つことを人々は拒否しているということだからである。
子どもを持ちたくないという意識の人々が多数現れるなどということは、これまで予想だにされていなかったし、子供を持ちたいという気持ちは、人間であれば当たり前のことであり、そのような人間の本性に関わることが急激に変化するとは誰も思っていなかったと言ってもよいと思われる。
多くの人々が、子どもを持つことを拒否する社会というのは、人類史上極めて異常な事態と言わざるを得ない。少子化という社会現象は、今述べたように、必ずしも社会や経済に悪い影響を及ぼすものではないが、やはり、政治家として放置できない問題であると考える。
少子化の進行、その裏腹としての高齢化が進行することは、年金、医療、介護といった社会保障の分野に限ってみると、大変大きな問題を引き起こす。社会保障は、基本的には、年金も医療も介護も、若い世代が高齢者世代の面倒をみる仕組みだからである。歴史的にみても、昔は、家族単位で面倒をみていたことを、都市化に伴う核家族化の進行によって家族による扶助の機能が失われ、これに代わって国全体で行う社会保障の仕組みが整備され、社会全体で高齢世代の生活の面倒をみるようになってきたものということができる。
要するに、古今東西、現役世代がしっかりとしてくれていてはじめて、高齢者の生活の面倒をみることができるのであり、この条件がなければ、あまりよい言葉ではないが、「姥捨て山」の社会となってしまうのである。
したがって、次世代をきちんと育てていかなければ、社会保障制度は成り立っていかないのであり、裏返して言えば、今後の社会保障制度を成り立たせるためには、健全な次世代を育成することが何よりも重要であることに思いが至るのである。
・健全な自立する次世代を育てる
次世代を育てる対策などというと、戦時中の「産めよ、殖やせよ」と勘違いされることを怖れるあまり、「生みたいのに生めないということがないようにする」という、いかにもまどろっこしい考え方にたって、我が国は、児童手当や保育所の整備など各種の少子化対策を実施してきたというのが実態である。これらの対策に意味がないというわけではないが、対策の基本哲学が正しくなければ、必要にして十分な対策とならないのは、当然のことである。
2000年のスウェーデンの首相の施政方針演説では、「適切な家族政策を行えば、国民は、子どもや家族は必要であるという考え方にたって仕事や未来についての決定をくだすことができるようになる。スウェーデンは歴史上最も出生率が低い状況に直面しており、更なる家族政策の提案を行っていく必要がある。」と述べている。
いわば、子どもを持ちたいか持ちたくないかは個人の自由であるという考え方よりも1歩踏み込んで、子どもを持ちたいということが自然な考え方であるという前提にたって、国家の政策を推進するとしているのである。
我が国では、若年世代の間には、いまや子どもを持ちたくないという考え方が広がっており、「一人前の大人は、配偶者や子どもを持つもの」という考え方が弱くなってきているのではないかと思われる。児童虐待事件の報道が後を絶たないが、最近評判になった映画「たそがれ清兵衛」で、主人公の清兵衛は、「子育ては、草花の成長をみるように、楽しい」と言っている。これが自然な感情であろうと思う。
前述のようにスウェーデン以上にかなり低い出生率となっている我が国においては、これまでの考え方から1歩進んで、「子どもを産みたくなる国をつくる」、「子どもを持ちたい国民を育てる」、という発想にたって、強力に少子化対策を進めて行かなければならないと考える。
また、日本と並んで高齢化が最も進行すると予測されているイタリアやスペインなどの南欧諸国は、北欧諸国以上に出生率の低下が甚だしいが、これらの南欧諸国では、成人した子どもが、なかなか親の家から出ていかず、自立しないことが出生率低下の大きな要因であると言われている。日本も「パラサイトシングル」という言葉に象徴されるように、南欧諸国と類似した状況が進んでいることが指摘されている。
このように、我が国で、今後の少子化対策を考えていく上で、最も基本的な哲学は、「健全な自立する次世代」を育成することであろうと考える。すなわち、若い世代に子育ては楽しいものだということが定着するような努力をするとともに、大学に行きたいなら、その費用は奨学金を借りて自分で負担することが当たり前となるような自立した次世代を育てる努力をすることが何よりも大事なことだと思うのである。
3 少子高齢化が進む日本の社会保障制度はいかにあるべきか
・社会保障給付費の現状と見通し
社会保障給付費は、高齢化の進展に伴って、年々拡大しており、その規模は今や、国の一般会計歳出を上回る83兆円に達している。1人当たりに換算すると、1年間に65万円を超える給付が行われている。約30年前の昭和45年度(1970年度)と比較すると、給付費の額でみると約24倍、国民所得比で約4倍にもなっている。
終戦直後、社会保障は、貧困の中、過酷な状況にある国民を助けるための救貧対策であった。その後、高度成長を背景に、国民皆保険、皆年金という形で、すべての国民の生活を支える制度へと姿を変え、未曾有の高齢化が進展する中で、かくも大きな規模のシステムへと変貌を遂げたのである。
今後、団塊の世代が高齢期を迎える中で、さらに、社会保障給付費は増大する。高齢化が1つのピークを迎える平成37年(2025年)では、現在の2倍以上の176兆円に達するものと見込まれている。
次に社会保障給付費の内訳をみてみると、平成15年度は年金・医療・福祉の比率は5対3対2と、年金の割合が高いが、約30年前の昭和45年度では、年金・医療・福祉の比率が2対6対2であったから、この30年間の年金の成熟ぶりは突出している。現在、年金制度改革が大きな争点となっているが、まさにこの水準をどう持続可能な水準へと調整していくかが問われているのである。
現在、国会に提出されている年金改革法案が成立すると、平成37年には、この比率は4対4対2という水準となる。保険料未納問題が問われる国民年金制度の在り方や、パート労働者に対する厚生年金の適用問題など、年金制度をめぐる課題は尽きないが、少なくとも、制度の持続可能性を左右する給付と負担の水準をどうするかという最大の問題について、今回の改革法案はその道筋を示しているといえる。
むしろ、これからの課題は、今後、年金以上に伸びが予想される医療・介護の問題である。年金は、団塊の世代が受給者となるこれからの10年間が胸突き八丁だが、医療や介護は、その後、この世代が後期高齢者(75歳以上の高齢者)となる時期以降、急速にその費用が増大することが見込まれるのである。
中長期的な視点から社会保障改革を展望すれば、年金改革によって、まずは今後の高齢者の所得水準の見通しを明確にした上で、今度は、医療・介護制度を将来にわたり持続可能な制度へと再構築を図るための改革を進めていく必要がある。
・国民負担率と経済成長
社会保障の給付が増えれば、それを賄うための負担も当然増大する。給付は厚く負担は低くというのが人情だから、当然、負担が増えることは歓迎されない。こうした中で、経済界を中心に、社会保障負担の増大は経済成長の足かせになるから、「国民負担率」の目標を設定して水準を抑制すべしといった議論がしばしば聞かれる。
「国民負担率」とは、「税と社会保険料の合計が国民所得に占める割合」のことだが、実は、日本独自の概念である。昭和57年の第2次臨時行政調査会以降、あるべき行政サービスの水準と負担の在り方に関連して論じられるようになった。バブル崩壊後、経済対策として赤字国債が増発され、「財政赤字」が拡大する中で、国民負担率に財政赤字を加え、これを「潜在的国民負担率」として財政規律の1つの目標とすべきという議論が起こった。平成9年に成立した財政構造改革法では、「潜在的国民負担率」が50%を超えないように財政運営を行うことが明記された。しかし、この法律は、景気対策の面からも問題が多く施行は停止され、国の掲げる目標とならなかった。最近では、再度、昨年のいわゆる「骨太の方針2003」(閣議決定)で、潜在的国民負担率50%程度を努力目標として掲げている。このように、潜在的国民負担率を一定以下に抑えるという考え方は、政府の規模を一定以下に保つための指標としては意義のあるものであるが、それが直ちに社会保障抑制につながるというものではない。また、「国民負担率の増大が経済成長を阻害する」という意見も、きちんとした検証を行う必要がある。
潜在的国民負担率の国際比較をみると、日本が45.1%(2004年度)であるのに対して、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデンはいずれも50%を超えており、とくにフランスは66.0%、スウェーデンは74.3%と、日本より相当高い水準となっている。例外は、公的医療制度のないアメリカで36.9%(いずれも2001年度)である。
では、経済成長をみてみると、1971年から2001年の30年間のGDP成長率(実質)を平均すると、イギリス2.3%、ドイツ2.3%、フランス2.5%、スウェーデン2.0%と国民負担率がこれまでずっと高かったにもかかわらず、いずれも決して低い成長率とはなっていない。
財政規律の面から国民の負担水準を何らかの形で示すことは1つの考え方であろう。しかし、社会保障の負担は、単なる一方的な負担だけではなく、給付と裏腹の関係にある。医療保険や介護保険の給付を引き下げれば、その分、個人の負担は増加する。国民負担率などの指標を用いて一律に社会保障の規模を抑制することは、たとえばの話、税や保険料の負担はいやだから医療保険の本人の自己負担は5割だというようなことにもなってしまう。やはり、社会保障の負担の問題を考えるに当たっては、給付との関係に目配りしながら、今後、増大する負担をどうやって皆で公平に分かち合っていくかという観点から答えを出していくしかないのではないだろうか。
また、国民の目から見ると、効率性の視点も見逃せない。政府がとことんまで社会保障の効率性を追求しているという姿を見せてはじめて、負担増という話もできるというものであり、話題となった年金福祉事業団(現・年金資金運用基金)の運営などは、こういう意味でも問題が多い。
国民負担率と並んで、経済との関係で提起される問題が、サラリーマンの保険料率である。厚生年金や健康保険の保険料については、その半分を事業主が負担することとされている。このため、保険料が引き上げられれば事業主負担も増えることとなるわけだが、この点について、雇用や国際競争力への悪影響を懸念する声も聞かれるところである。特に中小企業においては、現下の経済状況において、生き死にに関わる問題だという声もある。
しかしながら、国際比較の視点から見てみると、いわゆる先進諸国の中では日本企業の医療、年金などの保険料の事業主負担は12.0%であるのに対して、ドイツ21.3%、フランス32.0%、イギリス28.6%と、日本企業の負担は必ずしも高くないのが現状である。確かに、アメリカは7.7%と低い水準だが、これは公的医療制度がないためであり、法定外福利費まで含めて考えると、日本は労働費用に占める福利厚生費が17.9%であるのに対し、アメリカは19.3%と、日本以上の水準となっている。確かに日本がこれから競争相手として意識しなくてはならないのは、中国、韓国などのアジアの国々だというのも事実であるが、要は、冷静な判断が必要だということである。
また、事業主負担を考える際には、負担の面ばかりでなく、社会保障が充実することによる事業主のメリットについても併せて考えなければならない。例えば年金について言えば、労働者の老後の不安を解消し、安心して働くことを可能とするとともに、企業活動への貢献のモチベーションを高めるなど、良質な労働力確保につながるプラスの面がある。また、介護保険の創設によって、多数の民間企業が介護分野に参入したように、産業創出という面でも大きく貢献している。
・家計と社会保障
次に、各家庭の負担がどうなるのかをみてみたい。国民負担率50%と聞くと、直ちに給与の50%を保険料なり税金として納めなければならないと思いがちだが、そうではない。国民負担率の対象となる負担には、保険料の事業主負担や法人税など家計以外が負担する費用が含まれているからである。
平成12年の時点で、国民負担率は約37%であるが、家計の中で保険料と税金で納めている割合は、勤労者世帯で約18%である。
ちなみに預貯金の比率は9%となっている。一方、厚生労働省の推計によると、国民負担率が50%超となる平成37年(2025年)になると、家計の公的な負担は約28%にまで上がると見込まれているが、その場合でも、賃金が実質的に1%程度上昇する、すなわち、実質経済成長が1%程度あると仮定すると、預貯金は6%程度可能であろうという推計となっている。
今日の段階でも欧州諸国では、家計が、2桁の消費税に加えて、20%〜30%もの直接税と社会保険料を負担しており、日本だけが将来とも負担できない水準ではないということである。
4 むすび
以上みてきたように、少子高齢化の進行は今後の日本の経済・社会のあり方、とりわけ社会保障制度やそれを支える国民負担のあり方に大変な影響をもたらす問題である。この場合、私は社会保障に関する負担が上昇していくこと自体について怖れる必要はないと考える。しかしながら、問題なのは、日本の高齢化のスピードが世界に例をみないような速さで進むことから、負担の上昇速度が非常に速いということである。国民の意識がこのスピードについていけるのかどうかが鍵を握っている。
こうした負担を日本人が皆で分かち合いながら、冒頭で述べたような、「汗」で支えられた「高福祉・中負担」の社会の実現の道を探っていくのか、それとも、自己責任を基本に据えて、低い負担でそれなりの給付水準の中で進んでいくのか、今、我々は選択をしなければならない時期に来ているといえる。社会保障の将来の選択肢を国民に示し、その方向性を明らかにしていく政治の責任は重い。
今国会で、与野党は平成19年3月までに年金一元化を含む社会保障制度全般の見直し案をまとめると言うことで合意し、年金法案が修正の上可決成立することとなったが、本来国会で議論すべきことは、コンマ何パーセントの数字をどうするかというようなことではなくて、この国で進行している「少子化」にどう歯止めを掛けるのか、更には到来する少子高齢化社会にどのような国家ビジョンを提示するのかということでなければならない。
私は、このような現実を踏まえ、次号では、少子高齢化社会における国のかたち、生活の質というものを、より良いものにしていくためにどのような視点を持つべきかということについて、自分の考えを展開していくつもりである。
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