|
|
はじめに
今日の教育について様々な立場から、制度やカリキュラムについて意見が交わされ、私学はもとより公教育においても様々な取り組みがなされている。
一昨年来、規制緩和の議論の中から、地方のアイデアをもとにした「特区」の新設が推進され、教育についても様々な「教育特区」が紹介されている。それは、教育が次代の青少年を育てるという大変重要な国家的課題であることの証である。犯罪の低年齢化や国際比較で指摘されている日本の子ども達の学力低下が叫ばれている中で、私は、わが国の教育を改めて問い直す必要を痛感している。
その中で、私が気になるのは、「個性尊重」とか「国際人」という耳当たりの良い言葉が多いことと、教育問題について行政・学校・社会・家庭のそれぞれが負うべき責任について、どれかに偏った議論が多いことである。
そもそも教育の目的は何であろうか。教育の柱が、「知育・徳育・体育」にあることは異論はないと思う。健全な心と体と頭脳を育て、能力に応じて社会の一員としてそれぞれが自分自身に誇りを持って生きていけるようにしていくことが基本である。
急速に進む「国際化」や「情報化」といった社会の変化は無視できない。であれば尚のこと、子ども達が人間として、世界中で通用する価値感を持つような指導が必要だ。「親を大切に思う」とか「勇気」「信頼」「献身」「友情」「マナー」といった生き方を支える価値観をを築くこと。更には、いかなる国との交流でも、日本がどのような歴史や文化を持って発展してきたかを誇りを持って語れる教養などが重要になってくる。外国に長く滞在したことのある人からよく聞くのは、日本の文化や歴史について無知であると恥をかくという話である。真の国際人とは、自国のことを知り、強いアイデンティティーを持っていること、そして、相手国の歴史や文化や愛国心に対して敬意を払うことができる人間を指すのだと思う。個性豊かな国際人を育てると言うことは、とりもなおさずより良き日本人になるということだ。
そしてまた、広く国民の教育レベルを高めていく努力と同時に、優れた才能を持つ人間を、その道の指導的人材として育てていくことも、わが国の将来にとって重要なことだ。私の地元の東海地域では、トヨタ・中部電力・JR東海の3社が共同して、全寮制の中高一貫校を作り、世界に通用するトップエリートとなる人材を育てようという試みが進行している。このようなことも民間任せにするのではなく、国も責任を持って立派な人材を世に輩出していこうという姿勢が必要だと考えている。
これまで学校における教育のあり方が問われ続けてきているが、子供を持つ親も行政も教師も同じように問題意識を共有している。しかしながら、学校でいったい何が起こっているのか、家庭に責任はないのか、実態を踏まえた真摯な議論に基づく教育改革は、様々な視点で真剣に取り組まれているものの、国家全体の問題として明確な方向性を示すには至っていないように思われてならない。
指摘されている課題は、学力低下・学級崩壊・教科書問題・義務教育の六・三制問題・飛び級制・教育基本法改正問題・教員の資格や資質の問題、更には家庭の躾、犯罪の低年齢化をはじめ、法律上の問題から家庭の問題まで、極めて幅広い。本論では、人生の基礎となる義務教育を重点に、わが国の教育問題について考えてみたい。
荒廃する学校教育
周知のとおり今日、教育荒廃の深刻さは多くの国民が等しく憂えるところであろう。昨年は、長崎で小学生が同級生を計画的に殺害するという誠に衝撃的な事件が起き、世間を震撼させた。ひところよりは減少傾向にあるとはいえ、教師への暴力や器物損壊などの「校内暴力」は、年間2万3千件にも及んでいる。中国地方のある中学校では、廊下を自転車で走り回っている生徒を注意したら、数名で職員室に殴り込み、阻止するすべは教職員になく学校は彼らのなすがままだったという。数年前栃木県では、女性教師が生徒に刺殺されるという事件まで起きた。こんな暴力生徒に何もできない状態でまともな授業が行われるわけがない。
国立教育政策研究所が平成13年に実施した初の全国調査によれば、小学校の実例として「授業中勝手に席を立ったりトイレに行ったりする子どもがいる」学級は18.6%、「保護者との話し合いが必要ないじめが起こった」学級は、10.7%、もあるという。更に児童が教師の指示に従わず、私語や立ち歩きなど勝手な行動をして授業が成立しないなど、集団教育という学校の機能が成立しない学級の状態が一定期間継続し、学級担任による通常の手法では問題解決ができない状態に立ち入っている「学級崩壊」があったと答えた校長は26%、教員は33%に上ぼり、なんと平均して約3割の学校が「学級崩壊」のクラスを抱えているという実態が明らかとなった。また、「不安」「無気力」といった情緒的な障害から学校に出てこない「不登校」の生徒は、中学校で10万5千人にのぼっている。問題児童や生徒を抱えた教師がノイローゼとなり、教師の方が不登校になる例も決して少なくない。
こうして、学校でまともな授業が行われなければ、学力が低下するのは必然だろう。OECD(経済協力開発機構)が、2003年に世界41ヶ国の15歳の生徒(日本は高一)を対象に実施した学習到達度調査によれば、読解力が2000年の調査で8位だったものが14位にまで低下した。勉強時間の減少をはじめとする勉学に対する基本的な姿勢の衰えも大きな問題である。同時に実施されたアンケートによれば、授業以外の学習時間は、週平均6.5時間で、加盟国平均の8.9時間を大きく下回った。この結果を受けて、昨年の12月7日の閣議後会見で、中山文部科学大臣が「わが国の学力が低下傾向にあるとはっきり認識すべきだ」と異例のコメントを発表した。このようにわが国の子ども達の学力や勉学に対する姿勢は、将来に大きな不安を投げかけている現状だと言える。
家庭の問題
今日、かつての麗しい親子関係からは想像もできない、親殺し、子殺しの痛ましい事件が後を絶たない。人間の人格形成に一番基礎となる家庭という社会の最小の共同体が危うくなって、この先、社会を構成する成員は育つのであろうかと疑念をも抱かざるを得ない。
厚生労働省の調査によると、平成14年度に全国182ヶ所の児童相談所に寄せられた児童虐待相談は、約2万4,008件にも及んだが、これは平成2年度の20倍以上の増加となっている。恐らく児童相談所に持ち込まれない実数は更に多いに違いない。警察庁によれば、平成15年度、児童虐待で検挙された事件の被害児童数は166人で、その内42人が死亡している。ここ数年、毎年50人前後の児童が虐待の犠牲になって死亡しているという。そして、厚生労働省によれば、虐待するのは、義理の父母より実の父母で、特に実母が63.2%というから驚きである。子供が最も頼りとしている母親から虐待を受けるケースが一番多いとは、実に異常ではないだろうか。心理学者の林道義氏の『母性の復権』によれば、幼児虐待に走る母親は、自らが幼少の時充分な親の愛情を受けてないという悲しい幼児体験を持つ場合が多いと指摘している。だとすると、今日虐待を受けている子供達が親となったとき、更に虐待を受ける子供達が増える可能性があり、それを思うとぞっとする。考えてみれば、今や戦後60年、戦後教育第一世代が孫を持つ時代である。今の母親は、戦後第二世代〜第三世代ともいえようが、いずれにせよ、学級崩壊、教育荒廃という結果を招いてきた戦後教育には何らかの欠陥があると言わざるを得ない。その欠陥教育を受けた世代が、人格的に親になりきれず、何かが欠落した形だけの親になってしまったと言えよう。
また、子どもの躾や生活態度の指導がうまくいってない家庭は相当数に上っているに違いない。文部科学省が平成11年に調査した「子どもの体験活動等に関する国際比較調査」によれば、「ちゃんと挨拶をしなさい」「もっと部屋を片付けなさい」「人に迷惑をかけないようにしなさい」などと親から「よく言われる」と答えた割合は、いずれも日本が最低で、日本の家庭では子供たちの躾が充分行なわれていない実態が明らかとなった。また、日本青少年研究所と一ツ橋文芸教育振興会が、日・米・中・韓の高校生を対象に共同で行った「高校生の生活と意識に関する調査」の中に「親に反抗する」ことの国際比較があるが、「よくない」と答えたのは日本が最低、逆に「本人の自由」という回答は日本が最高という結果だった。このように、今日家庭という共同体までもが、まともな人格形成が困難になってきている兆候があることは看過できない。更には、麻布台学校教育研究所が、都内と神戸市内の小中学生を対象に実施したアンケートによれば、6割前後が「自分はいつか『キレてしまうことがあるのでは』と思う」と回答したという。キレた結果、何らかの犯行にまで及ぶのか、何が起きてもおかしくない最近の世相を考えると背筋が寒くなるのを覚える。家庭の教育力崩壊現象は、一番基礎の人間共同体の原点が崩れることであり、学力低下以上に深刻な問題と言えよう。
この延長線上で、父兄から学校への様々な苦情も増えている。昔は、教師に叱られ体罰を受けても、親が子供をたしなめたものだが、今は逆にちょっとした体罰でも親はすぐ目くじらをたてて抗議に行く。クラスに問題児がいると他のクラスに移すようクラス替えを要求したりする。わが子のことしか眼中にない「教育ママ」の過剰な反応に苦慮している学校も少なくない。
都内の一部の小学校では、低学年から茶髪で登校する子供の姿が見られるようになったのも普通の光景になってきている上、中には授業を受けるのに不適当な服装で来る子もいると聞いているが、そうした児童の親に対して、担任の先生が強く改善を言えないのが現状だ。問題は、こうした常識が通用しないような保護者への対応のほとんどが、担任に委ねられていることであり、そうしたクラスを抱えた先生方の物理的・精神的負担は一昔前に比べても著しく増大している。前章で述べた「学級崩壊」が起きるのは、先生の指導力の問題とともに、家庭での指導力の低下ということも大きな原因の一つである。
自由と人権のはき違え
どうして、このような事態にまで立ち至ったのであろうか。
周知のとおり教育基本法が制定されてまもなく60年になる。いわゆる戦後教育は、この法律の理念に基づいて行われてきた。この間に執られた様々な教育行政の措置は、その折その折には、それが今日の事態を想定していたわけではなく、「よかれ」と思って実行してきたことであろうが、「教育は国家百年の大計」と言われるだけに、今日の状況は極めて深刻だ。
こういうと、それは、教育基本法の理念を徹底してこなかったからだという人々がいる。確かに、教育基本法には、間違ったことは書かれていない。「理念を徹底すべし」と主張する人が特に強調するのは、「平和」と「人権」であるが、これ自体は素晴らしいことである。しかし、戦後一貫して「平和」と「人権」が叫ばれてきたが、相手の平和を阻害し、相手の人権を侵害する人がいかに多く育ってきたかを考えるとき、何かが欠けてきたと言わざるを得ない。それは、純粋に平和と人権の理念を追求するのではなく、常に自己中心に考えられてきたからではないだろうか。
自由や個人の尊重は素晴らしい価値であるが、友愛とか思いやりの欠けた、自由の履き違えは決して人々の幸福にはつながらない。家庭や地域、ひいては日本人の一員としての自己を認識した上での自由や平等ということと、単に勝手気ままだということは違う。
たとえば、幼稚園の教育要領が平成10年に変わって、最近の幼稚園や保育園では、「自由保育」というものが中心になりつつあると聞く。たとえば、絵を描く時間でも、全員が絵描きをするのではなく、各自がやりたいことをやらせるのだという。集団生活としての約束事やルールを教えるよりは、「個性尊重」の名の下に幼児の主体的活動を重視するのだそうだが、幼児などは「主体性」というより、往々にして「わがまま」のほうが多いのではないかと思う。一人一人の子供には、無限の可能性があり、かけがえのない個性があることにはもとより異論はない。だが同時に、子供は大人より自制心に欠け、欲望に左右されやすいことも事実である。何が個性で何が「わがまま」なのかの区別は、きちっと大人が判断して指導することが教育上大切だと思う。真の自由と自由放任とは違う。自由放任は無責任で、逆にその子のかけがえのない存在を無視していることになりはしないか。まともに授業を受けられれば、その子の才能が大きく花開いたかもしれないのに、幼稚園時代に先生の話をきちんと聞き入るという基本姿勢が養われなかったために、小学校に入っても勉強が身につかなかったとしたら、個性や自由の尊重ではなく、将来の選択肢を狭め、真の個性と自由を潰すようなものだ。このような「自由保育」の影響も、先ほどの「学級崩壊」に少なからず影響しているといわれるが、私も同感である。私達は、今一度、真の個性とは何か、自由とか何かを考え、国民全体で共有すべきではないだろうか。
もう一つの問題は、「人権」を偏重する余り、「公共性」が疎かにされてきたことである。
教育荒廃の原因は、いろいろ多岐にわたり、複雑に因子が絡み合っている。しかしながら、基本に立ち返ってみれば、そこには「公」の不在があると言えるのではないだろうか。私には、「個性尊重」や「自由保育」「主体性重視」という言葉の中に、これまで培われてきた伝統や秩序、礼節、倫理道徳に対する否定的な姿勢が感じられてならない。そもそもあらゆる集団から切り離された無色透明な個人など存在しない。家庭があり、地域社会があり、そして日本という国がある。人は自助と連体によって生きており、その営みの繰り返しが歴史や郷土を形成してきた。その構成員である私たちが円滑に社会を運営していくために、約束を守るとか、うそをつかないとか、迷惑をかけないといった倫理規範から、困っている人がいたら助けてあげるとか、地域のために何かをしなければならないようなことがあれば率先してやってみるといった、積極的な人としての生きる姿勢(これも道徳の内であろう)が存在する。
公私のけじめだとか、公共の場でのマナーといったことを教えなければ、個人の欲望が抑えられず、肥大化するのは目に見えている。平成10年度に文部省が調査したところによれば、「学習指導要領」で、道徳教育に充てるよう定められた年間35時間を、きちんと道徳教育に充ててない学校は4割もあったという。その結果が今日の教育崩壊、青少年犯罪の増加にほかならない。日本青少年研究所が実施した高校生の意識調査によれば、学校をずる休みすることや、教師や親に反抗するのは「本人の自由でよい」と回答した者は、実に7割台もいることが分かった。米国は、4〜5割、中国は2〜3割というから、日本の道徳心が如何に低下しているかが分かる。
間違った平等主義がもたらすもの
始業前の「起立、礼」という挨拶を無くした学校は多い。学力低下の原因の一つには、誤った子供中心主義というものがあるのではないだろうか。教師と児童は対等ということで、教室から教壇をなくし、先生をチャン付けで呼ばせて、教師は児童の友達関係などと説く教師がいたりで、教える側の権威を自ら否定してきた面は否めない。また、子供にできるだけ苦痛を与えない、出来ない子に悲しい思いをさせてはならないと、かつて運動会の徒競走で全員そろってゴールインさせたとか、5段階評価で、オール3の評価が公認になったりしたが、これでは努力してもしなくても結果が同じとなり、努力することが無意味になってしまう。その子供がその子の実力なりに頑張ったという絶対評価は、基準があいまいであり教師の主観が入りやすい。教師の方も採点しにくいから、オール3にしておけば問題ないということであったのかも知れない。確かに、学級ごとに5が何%、4が何%、3が何%という相対評価に問題が多いことは事実であるが、かといって絶対評価も問題が多い。私は、どちらの評価がいいかということではなく、やはり全国統一の学力テストが必要で、子供がどの程度理解しているのかを、客観的に判断できるようにしておくことが大切だと思う。
勉強が出来る子、出来ない子、スポーツ・音楽・絵画、それぞれ得意な子、苦手な子があっていいではないか。問題は、他人との能力の差に覆いをかけてあいまいにすることではなく、一番できるからといって自慢したり、出来ない子を馬鹿にしたりということのないようにする、出来ない子に対して、卑屈になったり、出来る子を妬んだりすることのないようにするということが、大事な教育のポイントだと思う。出来ない子が少しでも成績が上がれば褒めてやり、達成感、満足感を味わわせることも大切であろう。評価を通しての試練の場が必要で、教育とは、技術・技法・知識の伝達とともに、向上心を持って挑戦する人生姿勢を養うため、励ましたり、叱咤したりすることが肝要だ。
誤った平等主義が、結果として大きな不平等をもたらした苦い実例がある。義務教育課程の話ではないが、かつて美濃部都政の時代に、「公教育において教育機会の公平性を担保する」という位置づけのもと、都立高校の入学選抜に導入した学校群制度がそれだ。学校群制度を導入した結果、すべての都立高校でレベルダウンが生じ、特に伝統的に高い学力水準を維持していた都立高校において上位の国公立大学への進学率が激減したことは周知の通りだ。このような制度が導入されると、真面目に進学を考える生徒や父兄は、教育水準を維持している私立の中・高等学校への進学を考えざるを得ない。結果として、今日レベルの高い学力を身につけようとするには、高い授業料や塾などの教育経費を負担できる家庭でなければ困難な状況に陥ってしまった。義務教育はもとより、本来の公教育の目的は、経済的に恵まれていない家庭でも、等しく子供は国の宝、社会に有為な人材は公費で育てようということであり、ひとかどの人間になりたいと努力する者には、道が開けているということこそ、真の平等である筈だ。見せかけの誤った平等主義にこだわるあまり、結果として大きな不平等を生んでしまった苦い経験を忘れてはならない。制度の変更により、思いもかけない大きな問題を生じてしまったこのような実例を考えると、教育制度改革というのは、結果としてどうなるか、ということへの真剣な考慮が不可欠だと改めて思う。都立高校の入試制度は平成6年度から単独選抜制度に変更されたが、一度失ったレベルと公立高校に対する信頼感を取り戻すには、大変な時間と労力が必要である。
同じような制度の変更によって問題が露わになったのが、平成14年にスタートした「新学習指導要領」、いわゆる「ゆとり教育」である。これは学校5日制、総合的な学習の時間の創設による教科時間の3割削減、「絶対評価」の導入を新しい柱とするものであったが、文部科学省の当初の説明では、これにより、基礎、基本の確実な定着をはかり「落ちこぼれ」を解消するということであった。しかし、以前から九九もできないなどの子供の学力の低下が懸念されてきたのであって、「読み・書き・計算」といった基礎、基本を身に着ける時間を多くとるというのなら理解できるが、教科時間を3割削減したのでは話しにならない。「ゆとり教育」の導入によって、たとえば国語の時間は、小学校で年間1,601時間から1,377時間へと15%削減されたが、前述したように生徒の読解力の著しい低下が心配されている状況の中では、本末転倒と言わざるを得ない。
これによって、さらに学力低下が進むことに危機感を抱いた、秋田県や群馬県、茨城県、福岡県などの一部の市町村では、小中学校の「土曜補修」や放課後の補修授業が実施されているということだが、私の地元岐阜県では、土曜日は行わないものの、夏休み中に補習授業が行われているということなので、子供達の学力に大きな影響が出たことは間違いない。
こうして「ゆとり教育」は、各方面の強い批判を浴びたため、文部科学省は中教審答申を受け、極めて異例にも学力重視路線に軌道修正することとなった。わずか2年の「朝令暮改」である。このこと自体、文科省自体の教育理念や方針が揺れ動いていることの表れで、改めて、如何なる子供を育てるのか、原点を見直すことが必要であろう。
教育改革―現場の取り組みと課題
今、各地で、教育荒廃を救済すべく様々な教育が試みられている。始業前の本の「読み聞かせ」は、各地の学校で取り入られているようだが、児童が静かになり、授業を受ける姿勢を確立するのに効果を上げているという。
また、父親の職場を見学させ、日頃あまり接触する機会のない父を意識させ、家族の為に働いている姿を実感させたり、夏休みを利用して、スーパーやそば屋、クリーニング店や農家、老人ホームなどで一定期間働く体験を通して、生活の糧を得ることの苦労や、社会の成り立ちとその一員たることを経験させたりすることも行われている。これらは自分ひとりで生きているのではなく、多くの人のお陰で生かされているということや、今自分が学校で学ぶことの意味を知る上で、大きな効果を上げているという。小学校1年生に「お手伝い帳」を配布し、積極的に家の手伝いをさせることによって、家族の一員たる自覚と親子の絆の深まりに効果を上げている県もある。行政や学校以外でも、NPO団体などが主体となって、清掃体験や祭りや伝統技芸への参画や稲作体験などを通じて行う教育の試みも効果を上げている。
これらの試みはまだ一部であり、関係者の並々ならぬ努力によって実現させているもので、そもそもこの国の将来に向けて、どのような子供たちを育てるべきかという、公教育としての全国一律の方針があるわけではない。個々の対応にまかせられているというのが現状であろう。
これまで、多数の校長が、入学式、卒業式における国旗掲揚等について、これを実施するか否かを巡って、職員組合と教育委員会の板ばさみにあい、中には自殺に追いやられた校長までいたという広島県の例を紹介すると、平成12年度で校内暴力発生件数は、全国の都道府県の中でワースト6、刑法犯罪で逮捕された少年の割合は、平成8年〜12年まで、ワースト3以内、学力の状況も県立高校生の大学入試センター試験の成績で、平成元年には全国15位だったのが、平成8年には45位にまで下落していた。ところが、ある校長の自殺と、広島県の教育実態についての勇気ある教師の国会での証言が契機となって、平成10年、校長の権限を制約していた県独自の文書や国旗掲揚等について、文部省(当時)の是正指導が広島県になされた。それを境に、関係者の大変な努力の結果、かつての広島では考えられないような、道徳教育の推進や学力テストの実施と公表等がなされるようになり、その結果、校内暴力については、平成12年には1,996件あったものが、平成15年には1,132件と43%も減少。また、学力向上については、国公立大学合格者が、平成12年には1,556人であったものが、平成15年には1,826人へと17%増加したという。だがこの成果は、あくまでも広島県が文部省の指導を受け入れ、またそれを土台に県独自の様々な教育改革を父兄とも協力しあって実行努力してきたからであって、広島県の主体性によるものである。文部科学省はいわゆる「指導」までであって、権限がない。
英国の教育改革
イギリスはサッチャー首相のときに、大きな教育改革に取り組んで著しい成果を得たことを、昨年12月に発行した緊急提言で紹介した。私も本年1月に衆議院の海外政情視察でイギリスを訪問し、教育改革について英国国会議員と意見交換をしてきたが、私は、わが国が取り組むべき教育改革において、その手法に学ぶべきところが多いと考えている。
サッチャー首相は、イギリス国民としての誇りの回復と道徳の重要性を訴え、伝統的価値観の継承を基本とした教育改革に着手した。まず教育内容を、教師の自主性に委ねる結果となった1944年の教育法を全面的に改定し、公費によって維持される学校の教育権は国家(教育大臣)にあるとする1988年法を制定し、この法律を基に次々に教育改革を断行していった。
「教育権」がどこにあるのかという問題は、極めて重大だ。サッチャー政権は、最初に「教育に対する最終責任は国がとるべきだ」という基本理念に基づく教育改革案を総選挙の前に提示したが、野党はおろか、教職員、教育省の官僚までもが反対したという。結果は、保守党が総選挙で勝利し、英国民がこの改革を支持したことによって、サッチャー教育改革は実現することになる。わが国も、同様の理念を打ち出すべきだと私は思うが、これは正に戦後教育の180度の転換となろう。
イギリスにおける新たな教育政策の柱は、教育権が国にあるということを前提に、第一に、すべての生徒が基礎学力をつけることを保証するため、バランスのとれた全国共通のカリキュラムを定め、その達成状況を評価する権限を国に付与したことである。実際には、学習達成度を測るため「全国共通テスト」を7歳・11歳・14歳の時に実施し、16歳時に「義務教育終了テスト」を行って、その結果を学校ごとに公表することとしている。第二に、親が学校を自由に選択できる学校選択制度を導入した。第三に、すべての公立学校に、親と地域代表を加えた学校理事会を設置し、理事会と校長先生に予算運用権と教職員の任免権を与えた。そして第四に、学校予算を生徒数に応じて配分する方式にし、生徒を多く集められる優秀な学校には多くの予算が配分されるようにした。
わが国でも、自治体の判断で小中学校の選択ができるようになっており、選択制を導入する地域も増えてきているが、親が学校を選択するための基準になる情報や学校を見学するような機会は、まだまだ不十分だ。
また、公教育に競争的な原理を導入することに対する批判もあると思う。しかしながら、人生の基礎を培う初等教育で、最低限度の知識や教養を身につけることができなかった生徒たちは、かえって不幸である。高等学校は事実上の全入に近い状況になっているし、少子化の進展で、大学さえ定員ベースで、全入が可能になってきている。にもかかわらず、先にも述べたが中学校での登校拒否が、全国で10万人以上いる現実を見たときに、改めて、わが国の初等教育をドラスティックに変える必要があると言わざるを得ない。
イギリスの改革が、すべて正しいと言うつもりはないが、サッチャー改革が実施された88年で、義務教育終了テストで標準以上の成績を取った生徒の割合が、およそ25%であったものが、10年後の98年には、約46%まで急上昇したことからも、この改革によって基礎学力の向上に、著しい成果があったと言うことができる。
「読み・書き・計算」の基礎教育の充実
基礎教育がいかに大切であるかは、最近、斉藤孝明治大学教授の、『声に出して読みたい日本語』がベストセラーになり、音読の教育法が注目されていることでも知られるが、さらに進んで、脳科学の分野でも、「音読」や「百マス計算」などの反復学習法による効果が証明されつつある。医学博士の川島隆太東北大学教授の最新の脳研究によれば、「読み・書き・計算が、子供たちの脳の前頭前野を非常に刺激し発達させ、それを反復練習させると学習効果が高まり子供たちのさまざまな能力を伸ばすものだということ。同時に子供たちの心の発達にも大いに関係している可能性がある」とのことである。「読み・書き・計算」の中でも特に音読は、脳の活性化に極めて有効だとも指摘されている。かつて寺子屋で行われていた「読み・書き・そろばん」の反復練習という伝統的な教育方法こそは、すぐれた人材の基礎をつくる、最もすぐれた教育方法だったといえよう。川島教授によれば、小学校の低学年では、それだけを徹底的にやらせればいいという。そして更に注目すべきは、脳の前頭前野は、行動を抑制したり、情緒の制御をする部位でもあり、単に学力を向上させるというのではなく、人格の向上とも深い関連性があると指摘されている点である。実際、公文教育研究会では、自閉症の子供達に基礎学習をさせることによって、例えば教室の中で座っていられなかった子供たちが座っていられるようになったとか、親だけでなく教師とも話せるようになったというような事例が見受けられるという。
私は、国語教育は、算数や理科、社会など、他の教科を学ぶ基礎の基礎ではないかと考えている。たとえば算数でも数式で表すと簡単な問題なのに、それを文章で出題された途端理解できない子供が多いということをよく耳にする。数学者の藤原正彦お茶の水女子大学教授は、「一に国語、二に国語、三四がなくて五に算数、あとは十以下」と、小学校では、英語やパソコンに時間を費やすより、国語に力を入れ古典をも学ばせよと、国語教育絶対論を主張しておられるが、まったく同感である。
詰め込みがいけないといった情緒的な教育論でなく、子供たちの可能性を引き出す実践的な教育方法の成果を、真剣に公教育に反映していくべきだと考えている。
私が取り組む教育改革
では、今日の教育荒廃にどう対処すべきか。何から手をつけるべきなのか。これに対しては、私は、「対処療法」と体質改善をはかる「根本療法」の双方に取り組むべきであると考えている。例えて言うならば、地震などの災害に対し、まず救出、救護、水と食料の支給、仮設住宅の建設、ライフラインの復旧等が早急になすべきことであるが、これらは「対処療法」にあたる。個々の建築物の耐震化もこれにあたるかも知れない。しかし、消火栓の不備や狭隘な道路の為、緊急車両の到着が困難であったとか、隣家との距離が狭く密集しているとか、災害発生時の連絡通信網の不備であるとか、都市構造の欠陥が根本課題であることが犠牲者が多く出た原因であるとしたとき、町の設計を根本的に見直し、災害に強い防災都市の青写真を作ってから町を再建する、これが「根本療法」である。
前述してきた問題や様々な取り組みを総合的に勘案していくと、優先的に実現すべき対策が見えてくると思う。
まず第一に、われわれ国会議員の責任として、「教育基本法」を改正すべきである。平成15年、中央教育審議会の最終答申で教育基本法の見直しが提言された時、一部のマスコミは、いじめや、不登校、学力の低下は教育基本法に原因があるのではない、理念をいじっても教育荒廃の処方箋にはならないと書き立てたが、私は、「根本療法」には、教育基本法の改正が不可欠と考えている。
そして、その基本哲学は「公費を使って運営される教育の最終責任は国にある」とすべきであると思う。その上で、「どのような人間像を理想とし、どのような人材を育てていくのか」という教育の指針を明確にすることが教育改革の原点である。
いまの教育基本法では、「公」という視点が無く、どのような人間性を求めていくのかという教育の目標が欠落している。その結果、生徒や子に対して間違ったことには断乎とした態度で臨むという姿勢が無くなり、教師と生徒、親と子が対等になってしまった。平等と対等とは違う。教える者と教わる者とには、秩序がなければならない。教育基本法の改正にあたっては、正にこうした人づくりの根本をどこに求めるかという根元的な価値観を明示しなければならない。
私は、国や郷土や家族を愛する気持ちの涵養などは、教育の基本だと考えている。教育の大本を立て直すという点からも、教育基本法の改正が必要だというのがその理由である。
第二に、文部科学省は、教育行政の一環として、学力水準を回復するために共通テストを実施する必要があると考える。学校は、「学習指導要領」に基づいて、教育水準の向上に努める責務がある。学習内容の達成状況を把握するには、生徒全員を対象にした学力達成度調査が必要なのは言うまでもない。そしてそのデータを学校ごとに公開することで、それぞれの達成度が客観的に把握でき、取り組むべき課題が明確になる。いわゆる「ゆとり教育」の弊害が明らかになり、文部科学省は方向転換を決定したが、小・中学校という人生の基礎を築く時代は、子ども達にとってかけがえのないものである。速やかな対応が必要だ。
なおかつ、初等教育におけるカリキュラムを、「読む」「書く」「計算」の3点に絞って重点的に行うように改めることである。だいたい小学校低学年の授業時間は週24時間しかない。この中で英語やパソコンなどの授業を入れたのでは、基礎的な学力が養成されない。基本的な理解力不足のまま、進級していけば落ちこぼれが出るのは当然であり、基礎を築く時期には、国の責任において、しっかりとそれに専念できるカリキュラムに変えるべきだ。
第三に、教員の資質を確保するため、教員免許の更新制を導入することである。現実問題として、授業を行うことのできない不適格教員が多数存在し、一度採用されるとやめてもらうことができないために、国民の税金が使われると言うことは教育の信頼性を損ねる。更新期間は8年でも10年でも良い。教師自身が情熱と責任感を維持できるような制度に改めるべきである。同時に指導力のある優秀な先生については、60才定年にこだわらない柔軟な制度設計を進めたい。
更に、父兄から教師へのクレーム処理を行う第三者機関を設置することである。最近の学校への父兄からの苦情には極めて身勝手なものもあると聞く。小さな問題が父兄によって大きく騒がれ、特に新任教員などでは対応不能になってしまうことがある。それに対応するため、教員の精神的・物理的負担が増大して、教室での教育活動に支障が出るケースが後を絶たない。一方で、事なかれ主義でいじめの発生を隠したり、明らかに問題のある先生までかばい立てするなど、学校側に問題のある事例も見られる。退職した校長先生や教頭先生などの有識・経験者による新たな調整機関を創設して、学校経営をサポートしてもらうことで、学校での指導力を向上させることが必要だ。
第四に、情報公開により、地域社会や保護者の学校参加を促進することが重要だと考えている。実際、保護者やその地域が学校の情報を知りたいと願っても、なかなか見えないのが現実である。子ども達の教育を学校任せにして良いものではなく、学校の取り組みがブラックボックスになってもいけない。学校・地域・家庭がそれぞれ力を寄せて子ども達を育てて行くには、まず学校自らが教育活動や安全対策について自己点検・自己評価をし、学校運営の状況について情報公開がなされる仕組みの整備が必要である。
このことは、父兄に対して、今以上に大きな自覚と責任を求めることになる。子供が受けている教育内容についての認識をしっかりと持ってもらうとともに、子供が学校という共同社会の中できちんとした生活が送れているのかどうかということについて、親の責任が問われることになる。たとえば教室の秩序が犯され、一人の生徒のために全体の教育を受ける権利が侵害されるならば、その生徒に対し、学校側の毅然とした姿勢が必要であろう。「国や社会には規則があり、秩序がある。それを守ることは自分のためであり、皆のためである。」こんな基本的なことが、家庭で、学校で、信念を持って語られることが何より必要であろう。
第五に、われわれ大人が、子ども達から見て、「将来なりたい」と思われるような生き方を自ら示すということだ。今は、「あんな大人にはなりたくない」といった反面教師のような姿ばかりが目に付くが、本来家庭で、社会で、われわれ自身がそれぞれの立場や境遇で、使命感を持って生きる姿を示すというこそが、教育改革の原点ではないかと思う。
おわりに
わが国は、狭い国土に1億3千万もの人口を抱えながら、資源やエネルギーに乏しく、国民の英知を結集して、常に科学技術の革新と高い生産性を確保しなければ生存できない。たとえば、わが国の食料自給率は、カロリーベースで40%。先進国で最低である。それでも飽食といわれるほどに食料が有り余っているのは、食料を輸入できるだけの経済力があるからであることは中学生にも分かる。しかし、その経済力を有しているのは、常に国際社会での激しい競争に晒され、日々血の滲むような不断の努力を重ねて、質の高い工業製品や工作機械を作ってきたからであろう。ある物理系の大学教授が、最近の学生は、一つのことに没頭して研究室に閉じこもるということがない、これでは研究者の基本姿勢がなっていないし、新しい発見をする確率は低い、と嘆いた話を聞いた。学生は極めて優秀な能力を持っているのだそうだが、それまでの教育環境から研究に没頭する癖がついていないのだそうだ。しかしながら、学生一人一人と個人面談し、その研究室にいることを改めて選択するかどうかを含め、研究の意義や研究者の姿勢について話をすると、理解し熱心に授業も受け、研究に没頭するようになるという。いかに優秀な頭脳を持っていても、またいかに高度な研究環境が提供されても、それに見合う学問や研究に対する基本姿勢を身に付けていないとエリートも開花しないのである。また、外国に負けない独創的な技術は、ノーベル物理学賞を受賞した小柴さんや田中さんに象徴される、知的エリートが必要なのはいうまでもないが、いかに独創技術が生み出されたとしても、その独創技術を生かした製品を生産する工場の工員の教育水準が低ければ、経済力には結びつかない。わが国の高い経済力を支えたのは、その製品を生み出す生産工場の工員、つまり国民全体の教育水準が極めて高かったことも忘れてはならない要因なのである。こうして見てくると、わが国における今日の教育荒廃、学力低下をこのまま放置するならば、早晩技術立国日本の立場は崩れる。諸産業の質の低下を招き、やがて経済は悪化の一途を辿り、戦後焼け野原から出発して、世界第2の経済大国になったわが国の世界経済に占める地位は、大きく後退してしまうだろう。
「教育改革」について様々な視点があろうが、今現われているシビアな現実についての謙虚な反省に立って、われわれの責任として見据えていかなければならないと思う。
教育に対する社会の要請は、時代によって変わる。新たな時代に新たな人材が求められるのは、当然のことである。しかしながら、変化は常に先人の努力とその蓄積の上に現われる。日本人として生まれ、日本人として生きていく私たちの子ども達が、日本の歴史の蓄積とその価値を知らずに、新たな時代を築いていけるわけがない。
私たちが直面している教育問題とは、「人間としての生きる力、次代を切り開く力の低下」である。
すぐに結果が出せない課題だけに、目の前に現われた深刻な現象の原因は、30年、50年前に作られたものだという認識に立ち、国民全体の問題として真剣な取り組みに立ち上がれば、私たちの未来は必ずや明るいものになると確信をしている。 |
|